Essay on Austrian Summer Seminar 2002
2002.07.
橋本努
ニューヨーク郊外にある「経済教育研究所(FEE)」のセミナーハウスでは、毎年六月末に、オーストリア学派の夏季合宿が開かれる。一週間の日程で朝9時から夜9時まで、講義を中心に、オーストリア学派の経済学を勉強するという合宿である。私はこの度、八年ぶりに参加する機会を得た。八年前の参加では、まだ私が博士課程一年に在籍していた時のことで、とにかく疲れて圧倒されたという記憶しかない。しかし今回は、私のニューヨーク滞在最後の一週間に参加したことで、有意義な経験となった。なるほど英語力やコミュニケーション能力の点ではまだハンディがある。しかし様々な国の様々な背景を持った人達と議論を交わすことで、何か意義深い共在感を得たような気がする。以下では主として、この合宿での講義と私の考察について、記しておきたい。
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ピーター・ベッキの講義 ロスバードが1962年に『人間・経済・国家』を出版したとき、それは主流の新古典派経済学とはとても異なるものであった。しかし1992年に出版されたミルグラム&ロバーツの『組織と情報の経済学』は、新古典派からオーストリア学派の方向へと議論を発展させた教科書であり、1990年以降の経済学のトレンドは、ますますオーストリア学派に近づいているとまでいう。要するに、われわれオーストリア学派は勝ち組みの仲間なのだ(「負け犬」ではない)というのがベッキのメッセージであった。
ベッキによるオーストリア学派の位置づけは単純明瞭である。オーストリア学派は、理論体系としてはシンプルである。今後はそうした単純な理論体系を拡張していくことよりも、もっと現実の経済を分析するための経験的な研究へすすむべきであるという。経験的なデータと格闘して、エスノグラフィーや分析的な物語研究を取り入れていくべきである、というのである。
オーストリア学派は、ノーベル経済学賞を受賞したブキャナン、コース、ノースなどから学ぶことができる。また、ハンス・アルバート、エッガートソン、スティグリッツ、アカロフなどの経済学者たちとも呼応して、制度や情報の経済学を進めていくべきだという。この他にも興味深い分野として、成長と開発の経済学、自己統治(self-governance)の経済学――すなわち評判や規範や慣習に関わる態度の問題――、福祉=善く生きること(well-being)の経済学――厚生経済学批判――などがある、ということだった。
ベッキの第二講義は、社会主義経済計算論争について。マルクス主義の問題を重大に受け止めており、とりわけ論争の初期に起きた「市場社会主義」の理念がいかにラディカルであったのかについて面白い説明があった。第三講義では、今後のオーストリア学派の展望と題して、いくつかの発展可能性のある分野について説明があった。資本理論、金融論、市場プロセス論、自由主義、制度論、知識論、応用経済学、経済成長と福祉、などについて、新たな動向が紹介された。しかしベッキのアドバイスは、オーストリア学派をいかに発展させるかという関心よりも、経験的・応用的な経済学研究を少しでも先に進めることに専念すべきだ、というものであり、オーストリア学派の方法論的教義に囚われることなく、現実の経済社会を分析することに「弁解なく」取り組むことが重要であるというものであった。なるほど的を得たアドバイスである。
およそ経済学者を志すのであれば、「オーストリア学派とは何か」という、研究集団の自己認識問題にあまり関わる必要はない。そのような研究は、集団内での自己の地位をめぐる問題関心から、あるいは、集団の学問的権威をアピールするという問題関心から生じるのであって、経験科学への取り組みとは異なるからだ。ベッキは自らの方法論的立場をプラグマティックであると認め、経験的研究に使えるものならば何でも使うという、研究力旺盛な態度を示している。まさに研究力の旺盛さこそが、今後のオーストリア学派の動力となっているように感じた。
イスラエル・カーズナーの講義 カーズナーによれば、オーストリア学派における「教義の生命力(doctrinal vitality)」は、彼が大学院生としてオーストリア学派の研究を始めた1954年と、現在の2002年の間に、大きく変容した。1954年の段階では、オーストリア学派は主流派の経済学に「吸収合併された」とみなされていた。1871年にカール・メンガーの『経済学原理』が出版されて以降、およそ1934年頃までは、オーストリア学派は独自の発展を遂げてきたが、しかしそれ以降、すなわち戦争にともない、オーストリアの地を離れてからは、ワルラス派の経済学と合流して、その成果はいわゆる「主流派」と呼ばれる新古典派経済学に吸収されたという。こうして1950年代になると、ミーゼスやハイエクのその後の研究は、主流派に統合されない亜流とみなされた。これに対して当時活躍していた経済学者のマハループは、「オーストリア学派出身の主流派経済学者」であることに誇りをもつことができたという。
これに対して2002年の段階で振り返ってみると、オーストリア学派の教義の生命力は、歴史的に違ったかたちで描くことができる。1871年にメンガーの『原理』出版によって始まったオーストリア学派は、その後、イギリスからの留学生L・ロビンズの紹介によって新古典派の主流経済学者たちに影響を与えたが、基本的には独自の研究方向へと発展した。第二次世界大戦が終了した1945年以降、オーストリア学派はミーゼスとハイエクの貢献によって、とりわけアメリカで発展した。そしてその流れは今日に至るまで、主流派とは一線を画しつつも、独自の生命力を保持しつづけてきた。1950年代のオーストリア学派は歴史上の遺物ではなく、次世代へと新たに継承される重要な時期であったのであり、教義はいっそう深く、大きなうねりとなって発展していった、と見ることができる。
なるほどマハループの観点から見るならば、オーストリア学派は主流派に吸収・統合されることに成功した、ということになろう。方法論的個人主義、主観主義、限界主義、機会費用、生産構造の理論などは、新古典派の理論的基礎を提供することにもなった。しかしカーズナーによれば、1940-50年代のミーゼスとハイエクは、計算論争のもつ理論的・政策的含意を引き出すことに成果をあげた。そしてこのことが、オーストリア学派の別の教義、すなわち「発見と学習のプロセス」および「不確実性の下での選択」という教義を豊かなものにした。実際、20年前にニューヨーク大学に提出されたドン・ラヴォイの博士論文は、計算論争におけるミーゼスとハイエクの議論を新たな再解釈するものであったが、カーズナーによれば、マハループは審査員としてこの論文の意義をまったく理解していなかったという。
「教義の生命力」という点について、私はカーズナーに質問を試みた。1954年におけるその理解は、教義の生命力というよりもパラダイム形成の影響関係を示したものではないか、これに対して2002年の理解はまさに「教義の生命力」と呼ぶに相応しいのではないか、といった質問をしてみた。これに対するカーズナーの応答は、1954年に彼が大学院生になったときには、オーストリア学派というものはほとんど死んでいたのだという。それがこの50年間のあいだに、しだいに生命力を吹き返した、ということであった。とすれば、オーストリア学派のリバイバルは、カーズナーの貢献によるところが大きいであろう。威厳のあるその風貌は、今なお多くの弟子たちをひきつけてやまない。とりわけ1970年代以降、新たな運動としてのオーストリア学派は、カーズナーの貢献を継承するかたちで展開された。カーズナーが存在しなければ、まさに教義の生命力は蘇らなかったであろう。
オーストリア学派の理論というのは、「洞察」以外の何ものでもない。カーズナーによれば、その「洞察」を深めていくこと、洞察の含意を明確にしていくことが、自分自身の貢献であったという。
カーズナーの第二講義では、カーズナー自身の理論的貢献である企業家精神論が展開された。1963年にカーズナーが書いた教科書『市場理論と価格』は、価格の決定について、ハイエクやミーゼスよりもヴィクスティードに影響を受けたという。企業家精神による均衡化傾向の説明というカーズナー独自の理論は、新古典派ないしスタンダードな需要供給曲線の理解を前提としている。しかし新古典派理論の枠組みでは、完全情報や合理性などの諸前提に非現実的な要素があって、その枠組みに依拠した説明は必ずしも経済の本質を現実主義的に説明したことにはならない。カーズナーは企業家精神に基づく裁定行為が均衡化傾向をもつということを説明する際に、新古典派の枠組みをもちいるが、その枠組みは端的に「誤り」であることを認めつつも、説明の手段としては有用である(“O.K., but it’s false.”) と述べた。この説明はしかし、1950年代における経済学のトレンド、すなわち新古典派の枠組みを用いて理論を発展させることに貢献することが最も重要であると考えられていた時代の影響があるのであろう。現時点から見れば、カーズナーの理論を、需要供給曲線を用いずに発展させることが求められているのではないか、という印象をもった。異時点間の裁定行為を考慮する場合、カーズナーの理論は妥当性を一部失うはずである。この点を明らかにしなければならないだろう。
マリオ・リッツォの講義 主観主義の説明において、リッツォはその定義を明確にするよりも、そのいくつかの側面を明らかにするという方法を選んだ。主観主義には、現実の領域に対するコミットメントの側面と、意図せざる結果をもたらす現実というものを社会的に再構成して理解するという側面の二つがある。この二つの側面が密接に結びついていることを明らかにすることに、オーストリア学派のいう主観主義の独自性があるというわけである。リッツォにとって主観主義とは、いわゆる認識論的な方法としての主観の優先を意味するのではなく、現実そのものが潜在的に、人々の主観や意図や制御能力を超えて作動すること、例えば市場社会においては時間そのものが経済発展の原因となることを明らかにすることにある。あるいはまた、ディルタイの主観主義、ラックマンの制度論、ハイエクの集団淘汰、ジョン・サールのマインド論などは、オーストリア学派のプラクシオロジーを発展させる形で理解可能(したがって統合可能)であるという。こうした説明はすべて、従来の主観主義理解を変更するものであるだろう。オーストリア学派の主観主義がいかなる経緯を経て制度論やマインド論へと展開可能なのかについて、実に興味深い講義であった。
第二講義では「均衡」ないし「均衡化傾向」の問題が論じられた。均衡概念の定義とその意義(機能)について論じた上で、均衡化傾向というカーズナーの議論をより大きな秩序論の枠組みに位置づけようという試みがあった。私もこの問題に関心があって、リッツォの講義によって思考を掻き立てられた。市場システムとは、均衡という「解」を与える計算システムなのではなく、むしろそうした「解」を与えなくても作動するシステム、もっと言えば、解を与えるシステムではなく「問題を与えるシステム」ではないか。人々が各段階において合理的に行為することができるように、各人がそれぞれの問題を自分で定式化することが可能なシステムとしての市場。リッツォは市場というものをラカトシュのいう「研究プログラム」になぞらえていたが、研究プログラムは問題の体系であって、一義的な解を引き出す論理体系ではない。この点をさらに考察する意義があると思った。
第三講義では、帰結主義と功利主義の問題について、ベンサムとヒュームの議論を題材にしながら論じられた。最も効率的で有効な法体系を考える場合、不確実性の要因が高まると、最適さの基準そのものが意味をなさなくなる。そこで問題は、最も効率的な法体系を目指すことではなく、効率性とは別に安定性の基準を考えることである。法の安定性とそこから帰結する社会の安定性は、人々が法適用の予測可能性を最大限に共有する場合であろう。とすれば、法体系は一定の「一般適用性」と「特殊適用性」をうまく組み合わせなければならない。リッツォはこうした推論から、予測可能性を最大限に保証する法体系を目指すことができると主張する。これはハイエクの法理論を彼流に述べ直したものであるだろう。ラッファ曲線に倣って「一般適用性」と「特殊適用性」の混合比を考えるという点で、とても興味深いものであった。
マーク・スコーセンの講義 オーストリア学派とFEE(Foundation of Economic Education)の関係について、興味深い話があった。もう50年前にもなるが、家賃コントロール問題に関するスティグラーの論文「Roofs of Ceilings」がこの経済研究所(FEE)からパンフレットとして出版されたとき、FEEの編集者はこの論文に著者の許可を得ずに、「編集ノート」を追加して、シカゴ学派の方法論に疑問を投げかけた。これがきっかけとなって、FEEとシカゴ学派の関係は断絶してしまい、結果としてFEEは、自由主義と自由経済に関する教育を、オーストリア学派との関係で築いていくことになったという。とりわけミーゼスはFEEに尽力して、四冊の本をここから出版している。
1950年代と60年代には、計画経済のほうが自由経済よりも経済成長率が高かった。約20年間にわたって計画経済の成功が示されたわけである。経済学者はこれを、当時どのように判断すべきであっただろうか。サミュエルソンの場合、当時の様々な経済データから判断して、ケインジアニズムよりも計画経済のほうがすぐれた経済成長率を達成していることから、自らの価値判断を変更した。すなわち、「計画経済のほうが混合経済よりもすぐれている」と判断するに至った。こうした実証的な態度は、しかし思想の問題を考える場合には、必ずしも推奨されるものではないということだ。
第二講義は、経済成長を計測する上でGDP指標よりもGDE指標のほうがよい、なぜなら、オーストリア学派のいう段階的生産構造論の問題を観察する上で有用であるから、という内容のものであった。これはこれで、オーストリア学派のマクロ経済学を考える上で一つの前進であるかもしれない。
カレン・ヴォーンの講義 ヴォーンの講義は学部生向けのハイエク入門であった。まず彼女は次のように問題を提起した。国家の富をもたらすものは何か。何が国家を富ますのか。これに対する答えは、「市場制度が効率的に作用するから」というものであるが、では市場制度を効率的に作動させるものは何かといえば、それは暗黙知のシステムであるという。例えば、スーパーマーケットで英語を使わずに簡単に買い物ができるということの背後には、暗黙知の複雑さがあり、その複雑な暗黙知が慣習として機能する場合に、買い物は効率的になるというわけである。ではどうして、暗黙知の複雑さは慣習の単純さをもたらすことができるのであろうか。
私が考えるに、例外ケースに対するパタン認識が一通り終わるということ、つまりいくつかの例外ケース(例えば、おつりを間違えた場合や、買ったものを返品する場合など)にうまく対応するためのパタンを認識する場合に、通常の買い物行為が知識の活動量を減らす方向に向かうのではないだろうか。例外ケースに対処しなければならないという不安に対して、これを静める効果こそ、複雑性の縮減なのではないだろうか。そうしたことを考えてみた。
ロジャー・ギャリソンの講義 今回の夏期合宿において参加者からもっとも評価が高かったのは、パワーポイントを用いて景気循環論を鮮やかに説明したギャリソンの講義であった。最近の経済学書の中でも好評に売れているという彼の著作『時間と貨幣』をもとに、オーストリア学派の貨幣理論を生産可能性フロンティア理論に接合して、より包括的な説明を試みるという講義であった。パワーポイントを駆使するというその講義スタイルには驚いた。図を段階的に画面上で展開していく手法は、とても分かりやすく、また鮮明な印象が残った。なるほど講義は、内容よりも印象が重要である。印象が残れば、生徒たちはそれを手がかりにしていっそう理解してみようという気にさせられるに違いない。
ところでギャリソンは、他方で、今回のカーズナーの講義(もしかすると最終講義になるかもしれない)をカセットテープに録音して、それを文章に起こして何度も暗唱したという。その成果があったのであろうか、ギャリソンの講義はカーズナーの口調を真似て、以前よりもダイナミックかつ威厳のあるものになっていた。ギャリソンの性格は内気で落ち着いているという印象を与えるが、しかし彼は10年間を費やして、オーストリア学派の貨幣論を復活させることに成功すると同時に、カーズナー流の講義をマスターしていた。この執念深い研究態度に、私はまったく感服した。
スティーヴン・ホーヴィッツの講義 二つの講義があった。貨幣の健全さ(soundness)について考える講義と、オーストリア学派の見地から「福祉」を考えるという講義である。健全な貨幣に関する講義では、ヴィクセルとロバートソンに言及しつつ、インフレやデフレを避ける「価格の安定性」としての貨幣均衡こそが、貨幣政策の重要な目標であることを明らかにした。
第二の講義では、オーストリア学派から見た「福祉」の理念について議論が展開された。外部性や経路依存性や制度設計などに関する議論を検討しつつ、最終的には政府による市場への干渉を認めないという制度こそが福祉を充実されるというのである。なるほどホーヴィッツの議論はいずれも重要なテーマを扱っているが、決定的な点でオリジナルな思考がなく、どれも凡庸な結論に達しているように感じた。もっとも結論それ自体は、重要であることに変わりはない。ホーヴィッツの議論は明解で、またよく目配りの効いた準備であった。
ローレンス・ホワイトの講義 ギャリソンと同様に、参加者の間で評価の高かった講義である。フリーバンキングと金本位制復帰の可能性について考えるという二つの講義は、現代の金融問題、例えばアルゼンチンの通貨危機、日本の長期不況、ヨーロッパ通貨統合、アジア通貨危機などの問題に対する応答を含んでおり、国際金融制度をめぐってさまざまな議論が交わされた。ホワイトの風貌は、西部劇に出てくるカーボウイのような、古きよきアメリカの独立・開拓の精神に忠実な保守性を感じさせる。アメリカにおける自由主義の、一つの典型的なスタイルかもしれない。
フレデリック・ソテーの講義 パリ大学出身で、ニューヨーク大学にも客員研究員として滞在したことのあるソテー氏は、カーズナーの企業家精神論を組織論に組み込むという理論的研究に著作がある。彼は現在ニュージーランドの大蔵省に勤めており、経済の自由化政策の実務に携わっている。彼の講義はその経験に基づくもので、オーストリア学派の知見が実際の政策においてどのように役立ち、またどのような困難に直面するのかということがよく分かった。講義に切れ味とパワーがあった。
大学院生の研究発表 今回の合宿では、大学院生の三人による研究発表も行われた。ワシントンにあるジョージ・メイスン大学(GMU)の大学院生二名と、フランス南部のアクサン・プロヴァンス大学の大学院生一名による発表であった。ジョージ・メイスン大学の大学院生はいずれも留学生で、フランスのアクサン・プロヴァンスからきたパディヤ氏と、イタリアから来たアドルフォ氏であった。
ジョージ・メイスン大学の大学院においてピーター・ベッキ氏が運営するオーストリア学派のプログラムは、ニューヨーク大学の大学院におけるそれとまったく文化が異なる。ジョージ・メイスン大学は経験的・実証的・歴史的研究に重点を置いているのに対して、ニューヨーク大学は理論的・規範的・政策論的な研究に重点をおく。またジョージ・メイスン大学は指導教官と大学院生の間に濃密なコミュニケーションと師弟関係があるのに対して、ニューヨーク大学では学生を自由放任にしている。こうした違いは、それぞれの教授陣の性格によるものであろう。ニューヨーク大学におけるカーズナー教授やリッツォ教授は、孤高の思索家といった感じで、学生との交流にあまり時間を割いていない。これに対してジョージ・メイスン大学におけるピーター・ベッキ教授やカレン・ヴォーン教授は、教えることが大好きな人気予備校講師といった感じで、学生たちとのコミュニケーションに多くの時間を割いている。
またニューヨーク大学は全米大学ランキングのトップ10にランクされるのに対して、ジョージ・メイスン大学は46位にランクされている。こうしたレベルの違いは、大学院プログラムの違いにも大きく反映されているのであろう。ベッキは大学院生に対して「負け犬になるな」ということを言っていたが、ジョージ・メイスン大学の大学院は、そうした敗者復活戦としての機能を果たしているのかもしれない。大学院生たちの発表はいずれも、現実の経済政策(インサイダー取引や株式市場の再編)に関する具体的な検討をしたものであり、パワーポイントを駆使した魅力的なプレゼンテーションであった。
アクサン・プロヴァンス大学の大学院生、ロクサーヌさんの発表は、オーストリア学派における「福祉」の理念をピグーの厚生経済学と対比するというもので、ミーゼスやカーズナーやロスバードのテキストを読み込むという学説史スタイルのものであった。結論は簡単で、オーストリア学派は「福祉」の概念をネガティヴにしか規定していない、というものであるが、私は彼女の研究スタイルが日本人の研究スタイルに似ていることに、歯がゆい思いをした。およそ研究スタイルにというものには、文化的・地政学的な要因が多く絡んでいる。彼女の発表はアメリカ人には受けが悪かったが、私にはそれが彼女の育った社会環境に関係していることを理解した。後でロクサーヌと議論してみると、彼女の大学システムが抱える問題、パリを中心とするフランス学問界の閉塞性、規範的含意を隠す必要があるということ、などなど、いろいろな問題が分かってきた。フランスにおいてさえ、アメリカのような研究スタイルを簡単に導入するわけにはいかないのであり、それは日本の学界にも当てはまることだと思った。
何のための研究か セミナー後に私は、アクサン・プロヴァンス大学から来たロクサーヌとニールの二人と一緒に、マンハッタンで韓国料理を食べに行った。ニール氏は私と同時期にニューヨーク大学で客員研究員を務めていたこともあり、お互いに顔見知りであった。彼はメンガー理論における複雑性の問題について研究しており、一方ではメンガーの遺稿を手がかりに、他方ではホワイトヘッドの哲学を援用して、新たな市場プロセス理論を構築しようとしている。セミナーでは彼と夜遅くまで議論をして、とても楽しい時間を過ごした。お互いにオーストリア学派研究に対する関心が似ていて、私は彼のような研究者に会えたことで精神的にアシストされたような気がする。彼も私もマリオ・リッツォの研究スタイルが好きで、ピーター・ベッキの研究にはあまり関心がない。ニール氏はどうやら、ベッキの研究成果を本当に軽蔑しているようで、彼の業績はナッシングであると強調していた。ベッキはいろいろなことに言及するが、オリジナルな思考がない。また彼に師事する大学院生たちは、おべっか使いで、尻をなめるように従順であると批判する。実際、彼が言うには、アクサン・プロヴァンス大学における最も評価の悪い学生がピーター・ベッキの下で研究していたりするというのである。
マリオ・リッツォ本人もどうやら、ピーター・ベッキとは一線を画しているようで、セミナーの講義では二人のやり取りがあったときに、場の雰囲気が硬直してしまった。ベッキの質問に対してリッツォは、「私はそのような仕方で思考することが好きじゃないんだ」と述べて、なぜベッキ流の思考プロセスがよくないのかについて、説明したのであった。その後の昼食のときに私は、リッツォとこの点をめぐって議論した。彼が言うには、ベッキはポスト・モダニストだというのである。その意味は、ベッキの議論は様々なものに言及するので、様々な知識がないとそれだけでは理解できないようになっている。しかし様々なものに言及することで議論が魅力的に見えるだけなんだ、というのである。これに対してリッツォは自分をリアリストであると自認しているようで、現実の本質を掴むことを優先して、周辺の研究テキストにはほとんど言及しないというスタイルをとっている。
私にはなるほどマリオの研究が魅力的に見える。しかし1990年代以降、オーストリア学派の研究拠点は、ニューヨーク大学よりもむしろジョージ・メイソン大学のほうへとシフトしているようで、というのもベッキの経験的な研究プログラムのほうが、論文と大学院生の数を量産できるからであろう。しかも経験的研究の方が、奨学金を得やすいということがある。ニューヨーク大学の大学院生たちは、オーストリア学派の哲学的基礎を研究することで奨学金を得ることはもはやできない状況にあるのだが、これに対してジョージ・メイソン大学は、奨学金を獲得するための戦略に長けている。このことを私はニール氏に話してみたら、彼はすっかり興奮して、「いったいわれわれは何のために研究するのだ、奨学金を得るために研究するということ自体が間違っているのだ」と、ベッキのことを強く批判していた。私はもっともだと思い、彼と握手してしまった。私の場合も彼と似たような研究であり、また奨学金を得ないでニューヨーク大学へ趣いたので、同じ気持ちだったのである。
オーストリア学派の大学院生の職探し 今回の発表でもっとも好評だったのは、最近就職先が決まったというエドワード・ストリンガム氏の発表、題して「オーストリア学派研究者のための職探しアドバイス」という講義であった。興味深いデータとユーモアのセンスを交えながら、オーストリア学派研究の意義を大学院生に訴えるという印象的なものであった。
オーストリア学派はその規範的主張として自由主義にコミットメントしており、経験的かつ実証的な経済学研究の王道からすれば、オーストリア学派は学問よりも政治に傾いたイデオローグ(政治的扇動家)として煙たがれる危険性をもつ。そこでオーストリア学派を研究する際に、大学院生はむしろ「オーストリア学派」の看板を隠して、イデオロギー色の強い雑誌には投稿しない方が戦略的に正しいのではないかという疑問が生まれる。しかしこれまでのケースが示すところによれば、むしろイデオロギー色の濃い雑誌に投稿した方が就職率がよい、というのである。つまり、多くの経済学者は、自由主義ないし自由放任主義のイデオロギーに対して敵対的ではないということであろう。逆に、かえって自分のイデオロギー的観点を隠す方が、つまらない学者として敬遠されるかもしれない。イデオロギーを隠すことのコストは決して低くない、ということであった。
またストリンガム氏の発表で興味深かったのは、アメリカの大学で就職するために必要な要件についてのアドバイスであった。アメリカでは論文審査の他に、推薦書、学会での面接、キャンパスでの面接があって、これらの手続きを総合して就職先が決まるというシステムになっている。日本に比べるととても、就職には雇用する側の人格的・主観的な要因が大きく絡んでくる。例えば博士論文の内容にしても、その大学の審査員たちが面白いと思うテーマでなければ、博士号を取得できない。したがって博論の内容の範囲は大きく制約されている。また、大学に職を得るためには、学会の年次大会に設けられた面接会場を利用して、面接を繰り返さなければならない。なるほど公開の場で面接をすることそれ自体は公平であるが、日本の大学と違って、面接に大きな比重がある。雇用する大学側は、この面接で数人の候補者を絞り、次に候補者たちをキャンパスに案内して、数人の同僚たちと昼食などを共にする。こうして同僚たちの評判がよい候補者が、最終的に選ばれるというわけである。日本ではそうした「立ち振る舞い」について、就職時に評価されることがない。しかし教育に重点をおく大学では、雇用に際して被雇用者の人格的な要素を重視することは重要なのだろう。学会の年次大会を通じた公開面接というフェアな過程も、日本では学ぶべきことが多いはずだ。
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この他にセミナーでは、デビッド・ハーパー、サンフォード・イケダ、リチャード・ヴァグナー、バーノン・スミス(彼はこのセミナーの四ヵ月後にノーベル経済学賞を受賞した)、などの教授たちがそれぞれ講義をした。どれも興味深かったが、ここでは割愛したい。ところで講義の他に、食事やティー・タイムを利用して、参加者たちは互いにとても親しくなることができた。私はとりわけ、日系ブラジル三世のシキダ氏と仲よくなった。また他にも数人の参加者たちで、夜は午前三時くらいまで語り明かすという日々が続いた。ときどき疲れて仮眠をとることもあったが、さまざまな国の人たちとの会話はとても刺激的で、忘れられない思い出となった。大学制度の話題、研究生活、アメリカのアカデミズム、経済学研究と教育、博士号をとることの意義、大学院進学のススメ、宗教的・文化的な差異、などなど、いろいろなテーマについて延々と議論した。若い研究者たちとの異文化交流はとても面白い。おかげでこの合宿では、オーストリア学派の内容だけでなく、あるいはそれ以上に、異文化交流から刺激を受けることになった。合宿四日目の午後に自由時間を利用して、私はポーランドから来たマリアン・ミシナイという学部生の女性と、韓国出身のヤンバック・チェ教授と、そして私の妻の四人で、近くにある邸宅(現在は博物館として開放されている)を見学した。アーヴィントンという町はとても閑静な邸宅街で、経済学研究所からは散歩するためのトレイル(小道)が、その邸宅のある広い公園へと続いていた。その道を散歩しながら、いろいろな話題をめぐって会話したことが、今でも鮮明に思い出される。こういう合宿は人間交流してとても意義深いので、私も日本で企画してみたいという気にさせられた。ある意味で、私がオーストリア学派から学んだ最大の収穫は、コミュニケーションのネットワークを大切に育んでいく、ということなのであった。